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母の昇華2005年5月16日
愛する食口の皆様へ

 
とうとう母も昇華しました。昇華式時間が決まったのが前夜の夜11時過ぎで、昇華式が翌日の午前9時からであったにも関わらず、岡山・米子を含め46名の方々が集ってくださり、心のこもった追悼のことばをのべてくださり、母も元気づけられたと思います。

午前中の教会中の帰還・昇華式での食口に対するお別れ、午後の一般の人々に対する仏式のお別れの2つを体験し、改めて統一式のすばらしさを痛感しました。午前の昇華式に間に合わなかったので、午後の葬儀でご紹介した神山裕子姉の弔電、参加した母の2人の妹達が口をそろえてあの弔電には感動した。涙が出た、どういう人か?と聞くので、実は10分の1しか読まなかったと言ったら、さらに驚いていました。いただいた弔電はすべて司会より紹介させていただきました。

自分から言うのもなんですが、母は周囲に平和をもたらす偉大な人でした。子供達にとって立派な母であり、3人の兄弟に対しても立派な姉であり、父母を最後まで介護した孝女でもありました。33歳の時、交通事故で突然夫(41歳)を失い、夫とともに墓石にみずからの名前を刻み、その後の54年の生涯、夫への忠節を尽くした烈女でもありました。

母はまた鳥取教会、母子会の母でもありました。母は教会の巡回師になることを薦められましたが、残る子供や事業、親族のために在家もまま、小生を応援してくれました。母の願いは息子のやっていることが親族や世の中に認められることでしたが、母にその成果を見せることなく惨めな現状のまま母の昇華を迎え、慙愧に耐えません。母の尽くしてくれた奉仕に答えることができなかた不忠を心からお詫びしざんげするひと時でした。

晩年母は、家をいくつも買えるくらいは教会を応援してきた。お前に残すものは何も無い、しかしこれはお前も了解のもとだから分かって欲しい。私のことは心配しなくても良い。せっかく世のため人のためやってきたのだから、しっかり頑張りなさい、お前をこれ以上支援してやれなくて済まない。年金も全て医療費がかかるので、お前を今までのように支援できないのが済まないと、リューマチで手足が棒にようなり動けない、24kgの体で子を思う母の心に涙しました。

このような母であったので小生は、若くして神を知りました。そして統一教会の道は永遠の親孝行の道であることを知り、以後43年間、この信念は一貫しています。突然の準備であったにも関わらず、スムースに感動的な昇華式が行われたのも母と子の精誠の結果と思われました。7月3日、午後2時鳥取教会で49日、母の追悼会も持たれる予定です。ご縁のある方々が、思い出をお寄せいただければ家宝として永久保存させていただきます。

母の願いは教会と世の中の橋渡しでした。きっと良い機会になると思います。それまでにできれば母の一生をパワーポイントを作ってやりたいと思って居ます。桜井先生をはじめ多くの先輩諸兄姉より、真心こもるご厚情を賜り母に代り衷心よりお礼を申し上げす。
一人お一人に御挨拶すべきとですが、物理的制約で、このような形でご挨拶をすることをお許しください。母の昇華式、葬儀を無事終え、予定どおり、明日25日、モスクワ、ウクライナを経て、当初の予定を早めて6月4日日本へ帰国します。
下記の論文に集中している最中で、母の最期に今回は間に合いませんでした。多くの弔電のなかで母と1964年夏、開拓で起居をともにしながら、岩井裕子姉、兵藤容子姉が鳥取教会の礎を築かれました。小生が熊本開拓であったので、吾が子のようにお二人に尽くました。
よそものが家を借りるにも、兄弟が献身するにも不安であった地元も母の社会的信用が洗礼ヨハネのような役割を果たしたようです。
学業を放棄して伝道に明け暮れた小生を心配して、上京し早稲田の担任の先生に母が話したときはご父母様の牢屋を訪ねてこられた忠母様を思い起しました。地上で何の報いを与えることが出来ませんでしたが、せめて母の生涯をスライドで作成し、49日(7月3日頃)の追悼会にはご紹介したいと思います。下記に葬儀に昇華した神山夫人の弔電の一部、また5月27日小生のモスクワ講演の一部を添付させていただきました。
                                       ありがとうございました。

今朝朝方3時まで妹3人達と話しました。母は分け隔てなく兄弟4人を愛したので母の愛の元に、集まり、母の心を思って、許しがたき愛を許し、妹3人がいつになって恩讐を越えた母の愛、驚くべき真の愛を傍目で見れば、悪逆無道な兄に示してくれました。パレスチナのイサク(ユダヤ)とイシュマエル(アラブ)の争いも、また韓国と北鮮の南北統一も真の母の愛が可能にすると感じたひと時でした。        
                2005年5月24日       大脇準一郎  拝



神山裕子姉の弔電


子姉は兵藤容子姉とともに1964年尾脇家を拠点に開拓伝道。 鳥取教会を建てる。
この時尾脇準一郎は熊本開拓。
05/05/17(月) 08:15 鳥取教会宛

6日夜中に尾脇兄から電報があり、お母さんの昇華の知らせを受けました。
思えばお母さんとの出合いは60年代鳥取に開拓に行ったときでした。
準一郎さんを通して、お母さんを紹介され、見ず知らずの私たちを家に受け入れてくださいましたね。
お母さんの手料理の味は今でも忘れることが出来ません。
遠い昔のことのようでもあり、またついこの前にあったことのようでもあるような
様々な思い出がよみがえってきます。

あのころは、女手一つで4人のお子様も立派に育てておられ、事業も回転している時代だったと思い
ます。多くの期待をかけていた大学生の準一郎兄がみ旨の道を走ったとき、どれほどの衝撃を受けで
いたでしょうか。普通の親達は狂ったように反対して誰の話も聞けない状態でした。

しかしお母さんは、反対しながらも息子さんを信じて耳を傾けました。息子を本当に愛するがゆえに、
子を理解してあげようとする親の愛の深さからきたものだと感じま
した。そしで、年端もいかない若い私達の話も聞いてくださいましたね。
お母さん自体が動揺し苦しんでいる中で相手の話に心を開いて聞くと言うことは本当に難しいのに、
それができたお母さんでした。

その後は、お母さんは私達の盾となり、すべての面で私達を支えつくしでくださいました。そのことが
私達にとってどれほど嬉しくありがたかったでしょうか。
本当に忘れることができず、今思い出しでも胸が熱くなります。お母さんの相手の立場に立って理解
しようとする大きな包容力そして、無条件で尽くす姿は私の心に強く焼きつきました。

私もお母さんのように愛と奉仕の実践者となろうと強く願ったのを記憶しています。
そしてそれが私の人生を助けてくれました。あの時お母さんに出会ったことを本当に感謝しています。

「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶべし」とある如く、お母さんの見せてくれた生き方は
私の人生に生きているだけでなく子供たちにも、また回りの人達も伝えています。お母さんの心は海
を超えて、外地にいきていますよ。
お母さん本当にありがとうございます。

お母さん地上での生涯ご苦労様でした。今すべての重荷を下ろして、思いっきり神の愛と恵みを一身
に受けてください。そしで私達を見守っていてください。
愛と感謝をこめて…。
                 アメリカ、ニューヨーク郊外にて、神山 裕子   

後藤誠一さんの弔電

お母様の昇華の報に接し、まだまだお元気でいて欲しかったと思うばかりです。
私たちは、1974年7月から78年2月まで、責任者として鳥取に赴任しました。
30年前のことで次第に記憶も薄らぎがちですが、私たちにとっては長男が生まれた地であり、尾脇の
お母さんがおられた地ですから忘れることはできません。

尾脇のお母さんが居られることで、私たちは色々と勇気づけられ、助けて頂きました。
お母さんの家でも集会をさせていただたいことを思い出します。
お母さんには父兄会の会長さんもお願いしました。
仕事で忙しくとも、会長を快く引き受けてくださり、毎年のように父兄集会をしたりしましたね。

また尾脇のお母さんがおられると言うことで、他の父兄の方々も子供が教会に行っていることに安心
していたように思います。
鳥取の発展は、お母さんのおかげです。
私たちにとって、懐かしい思い出が一杯詰まった地でした。

お母さん色々とありがとうございました。
お母さんのご冥福と霊界でのご活躍をお祈りいたします。

2005年5月17日
東京都日野市 ソマリヤ国家メシア 後藤誠一、ハル


前略
大脇のお母さんの帰還式、昇華式、教会で手厚く行われた様子と聞き、ほんとうに良かったですね。
これから天より大脇家を見守り、協助して下さることでしょう。

同封しましたのは、香典というより、大脇兄さんの訪欧の費用の一部として受け取って下さい。
御健康をお祈りします。

5月18日 大谷明史  大脇準一郎様


尾脇様


此度はお母さんが昇華され、又新しく天一国へ親なる神様のもと、そして先立って行かれた先祖の
方々が喜んでお迎えされると思います。
地上にいるお子さん方、又親族の方にはすぐにお会いできないのでお淋しいかも知れませんが、
いつも愛をもって導いて下さると思います。
私の母親も早くから鳥取教会へ来ましたが、母より早く教会へ来られていた尾脇のお母さんに
おせわになりました。アメリカへ2度行ったときも
付添って下さいました。又母が昇華したときちょうど東京へおられた尾脇さんにお祈りして頂き
ました。私が教会へ来て間もない頃大坪のお家に
招いて下さり御食事を下さいました。本当にありがとうございました。ほんの少しではありますが、
お花料を送らせて頂きました。天一国へいかれる
お母さんの御活躍とご家族親類の方へ神様の祝福とお導きがあります様にお祈り致します。
失礼な文章があればお許し下さいませ。
                          岡春拝(旧姓、伊戸垣)

From: morikawa <mlc00692@yahoo.co.jp>Date: Wed, 29 Jun 2005 22:58: Su

尾脇準一郎様、
愛媛県宇和島教域の教域長をしています森川真児と言います。6000双です。
尾脇弘子お母様の昇華に心からの哀悼の情を捧げたく思います。お母様には
たいへんお世話になりました。霊界に行かれてもこよなく鳥取の地を愛し見守って
くださるのではないかと思います。私は1978年から1980年まで、鳥取の勝共
連合の事務局長をしていました。
その時、お母様にお会いすることができました。青年で活動ばかりしていたので、
尾脇さんの郡家の自宅に訪問した時は、お母さんから食事を出してくれたり。

暑い夏の日にはソーメンとスイカをご馳走になり、忘れることができません。
ご主人さんを亡くされ、電気店を切り盛りするのは大変だったろうと思います。
にもかかわらず、教会の食口たちを愛してくださり、特に勝共連合の活動には、
協力いただきました。お母さんは、当時平和教授アカデミーの事務局長を
していた準一郎さんを誇りに思っていたようです。だから国際情勢や勝共運動
にも関心をもってくださり協力してくださったようにも思います。私が就任した
直後に前の鳥取事務局長であった名取君が、岡山で事故のため亡くなった
あとであったので、情をかけてくれたようにも思います。当時はスパイ防止法の
県民会議を造るために、一緒に渉外もしてくれ、鳥取正論の会の皆さんの協力も
あってなんとか発足することができました。

あと人事になりましたが、直ぐ後に鳥取県議会でスパイ防止法案の地方議会の
議決がされる時、社会党、共産党反対と座り込みもかかわらず無事通過したことが
印象に残っています。(日本海新聞)それ以後、鳥取の地は、神とサタンとの戦い
の一線だと思いました。今もご苦労され活躍されている鳥取教会のあかしをきくと
懐かしく思います。更に発展されることをお祈りします。
      祈り  2005.6.29 森川真児拝 


前川 稔 兄 7回忌追悼文


追悼会参加者氏名

山本文登(鳥取教会)松永末男(東教会)、福田正治、山根圭子、高田公彦.ゆき子
李 基萬、佐々木春人.令子、田中矢栄子、福田充宏.美枝子、山根早苗、福田 巍
坂口康夫、新 誠 .倫代、浦野悟.繁子、山口洋子、川上みやえ、井上萬喜子
小宮山栄子、田中貴美子、坂根真弓、大門義典、松下稔、中尾茂、高橋育代
坪井三佳、横野秀司、中田里美、川上真由美、西浦由美子、薮内以知子
高垣千代子、濱本豊、森本謙司、網尾修一、森本康夫、岸田良恵、村尾美弥子
山本誠代、宮本典子、真壁俊文、徳田六恵、大西祥司,尾脇準一郎、栄子、

福島晃 ほか
           
聖和式

母について 2002年11月17日 バハマのNGOの達へ 大脇記

 
私の母も今年、80歳になります。私達の子供の内、2人は海外に行き、残りの2人の子供を母に見てもらい、
私たち夫婦で南米に出かけました。1月〜2月にかけて、母に負担をかけさせてしまったので、母はリュウマチ
がひどくなり、立ち上がれなくなってしまい、今は病院に入院しています。今日まで、私はこの母に大変な世話を
掛けてきました。

 まず、第一に思い出すのは、私の父は戦艦大和の電気設計技師でしたが、肺結核になり、田舎で療養してい
ました。戦後、その技能を生かして、電気屋・工場をしていました。どころが、41歳の時、突然、交通こと故で亡く
なり、その時、母は33歳でした。
 今から50年前の200万円は、大変なお金ですが、母はいろんなものを処分して、借金を返しました。母は父が
死ぬまでは、何苦労ない社長の妻という立場でしたが、突然の夫の死で、胎中にあった4人目の子供を産むとき、
産むのをやめようかと思ったそうです。普通であれば将来が不安になって子供をおろしてしまう人も多いのですが、
信仰をもっている友人の協助、苦しいときの神頼みで、信仰に入りました。

 その4人目に生まれた妹は、今は3人の子供に恵まれ、元気に頑張っています。私達が幼い頃、母に再婚の話
がありましたが、母は子供達のために再婚せずにやってくれました。小学生の頃、私は遊びに夢中で、ある日、帰
りが遅くなったとき、母にひどく叱られ、雨の中にずっと立たされ、「この母の気持ちが分からないのか!分かるまで
一緒に立っていよう!」と、母も共に雨の中、立っていました。この様なことがあって、ひたすら子供を思う、母の気持
ちが分かるようになりました。

 私は勉強ではトップになりました。中学生2年の時、電気楽器をつくったら、そのことが毎日新聞や少年雑誌に載り、
NHKまでインタビューに来ました。全国からファンレターも来ました。小さい頃に天才とか騒がれると、人の目が気に
なってしまいます。赤面恐怖症で胃が悪くなりました。高校生の時、テニスをしていて、急にストップしたり、その頃い
ろんなことが重なり、食べたものを吐くようになりました。医者に行っても治らず、母が最後にある教団から買ってき
た本で「胃腸病は必ず治る!」という本を見せてくれました。

 その本のなかの「感謝!」という言葉が荒んだ心の中に光りとなって飛び込みました!心が素直になれば病気は
2時間の間に治るという奇跡が起こりました。最後に治すのは信仰の力であることを悟りました。「自分は生きている
のではなく、生かされているのだ!」とのコペルニクス的大転換のこの時が3月18日午前8時、私が16歳の時でした。
その後4年間、日夜求道をし、さまざまな霊的現象、入信現象を体験しましたが、神や霊界の存在を客観的に説明
することが出来ず、悲壮な決意でこれを探求していました。原理を知り、私よりも先にこの問題解決をされた方がいる
ことを知りました。

 私は父が早く亡くなったので、心の中で父に対して、讒訴の思いがあることに気がつきました。ある教団の牧会され
るお婆さん(信仰の母)の一言で転換することが出来ました。それは「あなたが、今、生きていられるのは、お父さんの
遺産があるからだ。だから感謝しないといけない」との言葉でした。懺悔の気持ちから、教本を読んだ時に、教本の文
字が白金色の光を放って、心の中に飛び込んできました。立体的実感で、とても驚きました。それ以来、教本を読むと
自分の声ではなく、心の深みから、吾ならざる大音響の声が出ることがあります。清平やジャルデンに行って、原理講
論を拝読していたときも、吾ならざる威厳のある声になって、回りの人を驚かせたことがあります。

 母に対する素直な感情になることによって、肉的な命を与えてもらいましたが、父に対する恨みの情を、(信仰の)母
の愛によって諭され、心から感謝することが出来たとき、真理を悟ることが出来ました。原理に出会った時も、白金色
の光を放って、言葉が光となって受肉したという体験をしました。皆さんも、もし体が悪いなら、母親に対して讒訴の気持
ちがあるかもしれません。また、真理がなかなか入らないという人は、父親に対する讒訴の気持ちがあるかもしれません。
一概には言えませんが、私がそのようなことを経験したので、参考になればと思います。

 私は肉の母から、蘇生的な信仰を与えてもらいました。夫が亡くなっても、この子だけは人から笑われないように、立
派に育てようと、母の愛によって肉的命も助かったし、信仰の世界に目覚めさせてもらいました。この母に、私は何を恩
返しできるかと考えました。この世的にいえば「社会的な地位を得て、お金をもうけて、良い老後の生活を与えたい」とい
うことが普通ですが、原理を聞いたときに祝福を与えてあげることが、最高の恩返しだと思いました。この世の人が認め
るように、親孝行をしてあげられないことが、胸が痛いことであります。母はいつ死ぬか分からない状況ではありますが、
この道を歩む一番の契機になった母に対して、心から感謝をしています。

 父母に対する孝行心、それが世界の本質だと思います。私は母から言われて、毎日仏壇に手を合わせていました。
帰るとすぐに仏壇に手を合わせ、良いことがあっても、悪いことがあっても報告するように、母に教えられました。教会に
来て、真の御父母様に対して、そのようにしていないので申し訳ないと思います。信仰の世界は、父母に親孝行する世界
だと思います。私は神様に対して、全然違和感がありません。親が信じられないと神様を信じることができません。
親は見える神様ですから、神様は父母を通して自動的に知ることができます。しかし、世の中では、父母が親らしくない
ので、人類は、神様がわからなくなってしまいました。

 自分は母に対して「自分の子供だけを愛さないで、他のかわいそうな人達のことも思ってあげたたら良い」というのです
が、「他の人にはその人の親がいるので、そこまでは自分は出来ない」と母は言います。母の愛は、広さはないのですが、
深い愛を持っています。親が子を愛する愛とは、このような愛をいうのだと思いました。ですから、神様の愛も、私の母の
ように一途に愛する愛であると思います。そのことを、自然に分かるようになりました。

 実母の世界という面で、具体的に思い出すのは、母は父が着た古着を自分に合うように縫い合わせて、子供達には
恥ずかしい思いをしないようにと、新しい服を着させました。母は洋裁をしていたので、そのようなことが得意だったとい
うこともありますが、そのことを通して、自分を犠牲にしても子供を愛する、母の姿を見ました。言葉よりも実際の愛の
行いを見せることが、最高の教育だと思います。

 5月5日の子供の日やひな祭りの日には、仕事が忙しい中でも必ずお祝いをしてくれました。母は父の分までも働か
なくてはいけない環境でありましたが、きちんとしきたりを守って節目、節目のお祝いをしました。そのようなことが子
供心に良い思い出として残っています。儀式を守ることが伝統を守るということであり,真心を込めて子供達に伝統を
受け継がせるということは、とても大切なことだと思います。

              


T、母幼少・松田家族・兄弟 同級生  2男3女の長女、父:良三、母(近藤)雪子
   弘子、健二、亨、和子、美禰子   鳥取県八頭郡船岡町隼郡家
  
  
  

松田家系(岡山玉松城城主、備前守護職、松田荘領主。波多野氏・藤原氏
  松田家系詳細⇒)

    同窓生・生徒


U、結婚(新婚生活:呉。海軍技術研究所) ⇒鳥取へ
 父:庄三家族(尾脇家)祖父:小太郎、祖母:
 尾脇電機創立 昭和20年8月16日

V、 父:交通事故死 1951年5月4日41歳
母子会
W、 鳥取教会・真砂の会
 

世界平和教授アカデミー
         

海外旅行
 X、家族、孫たち
     
Y、母個人

昭和26年5月4日
故 尾脇 庄三  最後の一日
                         妻  弘子
         遺言
一. 準一郎に工場をやるから事業は継続して呉れ
一. 工場の裏の家を買って呉れ
一. 横山人美君を一人前にしてやって呉れ
一. 五郎や頼んだぞ
一. 後のことは帳簿を見れば解る



五月三日 朝六時起床

今晩夜行列車にて鳥取工業高校の先生方と一緒に電気学会の会合に列車の都合で
京都へ行く予定とあって、私は持参の荷物や旅装の準備をする主人は帳簿の整理後、
学校の拡声器修理と役場の電気工事の調べに福島さんと二人で行く。

昼頃帰宅、準備を整えて午後二時半やがて三時頃だったか、工場の木氏より電話あり、
主人が吉方踏切にて列車と衝突して負傷し出血多量にて危うしとの報に接す。五郎さんは
家の前にて苗田の水口を修理中、早速自転車でかけつけて貰う。余り突然の事故か何か
人事の様に思える。然し何か死を聯想させられる四時二十五分鳥取行きのバスの時間が
待ち遠しい。その中、四時過ぎ傷は肩と太腿で生命には別状無いとの電話あり一安心して
バスに乗る。一緒に妹とし子さん土井義行さんも出て下さる。やがて踏み切りも見え始め、
たくさんの人がまだ右往左往している様だ。近寄ってみると、主人の姿は無く、運命の三輪車
が真逆様になって、藁ぐまの上に乗っていた。久司、克己さん達の姿も見える。やがて五時半
頃鳥取中央病院へついた時は、手術室にて傷の手当て中。警察の人やその他大勢の人の中に、
山根敏さん、前田晃先生に身近かに付き添っていただき、顔には布がかけてあって見えないが
私が入って顔の布を上げ、手を握れば目でうなずき、意識は確かだ。秀衛兄や五郎さんの輸血
もすんで、頻りに水を欲しがられる。飲ませることを注意されながら、手術室より病室へ担架にて
運ばれて行く。みんな病室の中へ入り準備する間廊下にて只二人となる。いきなり私の手を
求めて握り「三輪車に乗っていた荷物はどんなになっていたか蜂蜜の瓶は破れていたか」と
心配らしく聞き、荷物も車も大丈夫ですよと云えば安心した様にうなずき、そして突然握った
その手に力を入れて、「弘子や心配かけて済まない」と心から叫びかけられた。かつて夫が
口にしたことのない此の尊い言葉、あゝ私もこれでよかったのだと思わず、うれし涙がこぼれる。
然しこれが最初のそして最後の二人だけの言葉になろうとはその時は夢にも思わなかった。

病室に入りやっと落ち着いたが、次々に見舞いにかけつける人で賑わしい。意識はとても確かで、
誰を見ても「済みません、済みません」と答える。隣の岡田良士さんが果物籠を持って見舞いに
見えた頃に市村君雄、渡辺良三、木下忠晴さん達も遅くなってから出て下さった。九時頃からか、
しびれ薬がとれたのか急に体中が痛むらしく苦しむ。特に背中と右横胸の下部の方が痛む。
座布団を中に入れたり、私の着ていた羽織を脱いで入れたり、様々にしてやっと体の安定が
ついたか静かになって来た。妹、和子や井出文子さんがびっくりして入って来る。余り変わり
はてた姿に二人胸にせまってか言葉もなく、私も思わず手を握り合って泣く。三時間置きに
強心剤の注射と湿布の取り替えに看護婦さんが入ってこられる。発熱なく、体温三十六度、
出血多量の為か貧血し、手足がとても冷たい。湯たんぽを入れてもなかなか足が暖まらない。
頻りに水を欲しがられ、余り与えれば出血するからよくないとの事にて気の毒だが少しずつで
辛抱して貰う。遅くなるので山根の敏さんにも帰って頂き、五郎、文子さん兄妹と私と三人で夜を
明かすことにする。顎や口の中が破れているので少し言い難そうだがとても言葉もはっきりしていて、
ぽつりぽつりと其の瞬間のことが余りにも不思議らしく、なぜこんなことになったのだろうかと話し
出される。そして「実に阿呆らしいことをしたものだ」と残念がって居られた。十時半頃遅くなって
から又、山根さんと前田先生が見えた。「先生には帰って休んで下さい。夜分まで来て戴きほん
とうに済みません」と申して大変感謝して居られた。

頻りに水が欲しそうで、急須に半分位と思ったのだが、一杯すんでしまった。夜分の中にもう半分
位しか与えられないと注意される。山本醫長先生に診察して貰って呉れとの願いでしたが夜分
ではあり、外科の先生に診察して頂き腹や胸部に内出血もない様だし生命に別状ないとの診断
なので、山本先生も診察は明朝にすることにしてみんな休むことにする。
強心剤の注射は相変わらず一時間置きに十二時頃までして下さる。五郎、文子さん二人には寝て
貰い、私一人付き添う。背中と胸が時々せめつけられる様に痛み、呼吸する度に胸が痛む
らしかったが、痛い、痛いと云いながらも、私がじっと手を握って「動くと悪いから静かにしましょう」と
云えばうんとうなずき、とてもよく辛抱して下さった。私はその度に自分の身体が痛む以上に苦しい。
初めて尿を取る。まるで血をといた様に赤い尿に驚く。主人にはだまって便所に持ち行き捨てる。
足がとても冷たく、湯たんぽをあれこれと動かして見るが一向に暖まらず、何とかして、私の体温を
分け合えたらと思って、私の太腿の間へ主人の足先を挟んだ。ぞっと身震いする程冷たい。然し
だんだん私の体温が足先から体内へ伝って行くのか、暫くすると冷たいのを意識せぬ様になった。
それから約二時間余りも経ったであろうか、主人もとても静かになり私もうとうと した様だった。
窓の外が少し白みかけた様だ。あゝ朝が来た。これなら大丈夫だ。この時位嬉しかったことはなかった。
主人も大変気持ちも軽そうで、あんなに冷たかった手足も今朝は、ほっこりと暖かになっている。
そして「自分の事が新聞に出ているかも知れないから工場へ行って取ってきて見せて呉れ」等と
経過は一変した。食欲も出たのか、林檎の汁や、牛乳が飲んでみたくなり、早速林檎の絞り汁を
急須に入れて口へ運べば全で息つく様だと離さぬ様にして一気に飲んでしまわれる。とうとう絞り汁
を二個分程飲まれ、朝配達の牛乳も半分口にされた。山根さんや其の他配電会社の方々が、
二、三名見えたが、気分が軽そうなので、安心した様に帰って行かれる。秀衛兄さんも大丈夫
だろうと朝の自動車で大坪へ帰られる。やがて九時過ぎだったか、急に嘔吐して沢山灰色の物を
出された。はっと其の時思われたことがあった。それは、長女千賀子が、死の直前嘔吐した時と
同様の物であったからだ。傍らの五郎さんにも見て貰い、おかしい様だから捨てずにその儘にして
先生に見て戴こうと云って、山本先生の来診を待った。嘔吐した為か少し呼吸も早く乱れている様に
思える。待つ中にやっと先生が来診に来て下さった。すぐ入ると、今朝新聞で見て初めて知った。
早く昨夜でもお電話して頂いたらすぐ往診してあげるのにとご親切に云って下さる。此の先生こそ、
主人が以前胸の病気療養中にお世話になり一命を取り止めて貰った大恩ある人だ。どんなに信頼
していたかわからない。聴診器が胸部から腹部へと動いて行く。一つ一つ先生の動作を見守っていた。
最後に私が先刻の嘔吐物をお見せすると、少し頸をかしげられた。そして多くは云わず、沈黙のまま
廊下に去られた。

それからは一寸水を飲んでも嘔吐してその度に呼吸は乱れ小鼻も動く様で息苦しそうだった。
十一時頃五郎さんの血液を腕より輸血、次に松本叔父さんのを右足首の血管より注入。注射も
どんどんされる。大きなリンゲル注射も二本もされた。輸血の途中約半分位入ったかと思われる頃、
急に震いが来て顔色は蒼白となり、握っていた私の手まで一緒に震えるかと思うほど震えた。

これは駄目ではないかと其の時直感した。頻りに「お父ちゃんしっかりして」「お父ちゃん気をたしかに
して」と眼をつむってしまわれそうで取りすがって叫び続けた。看護婦さんも大慌てで強心剤の注射を
どんどんされた。やがてじっと前の状態位になってきて、ほっとする。頻りに小鼻が動き、呼吸はずっと
早くなって来た様に思われた。眼もあいて来たので「お父ちゃん」と呼べば眼でうなずかれる様だ。気も
まだ確かで、「リンゲル注射をして下さい。カンフル注射を今二本かもう一本して下さい」等と看護婦さん
に申しておられた。外科の先生が二人見えた。容態が変わり、呆然としておられる様だ。痛かった右横胸
に内出血の検査の為か、大きな注射針をされた。ずっと注射器を引かれる。一回、二回あっ大丈夫かなと
思っていると、三回、四回と引かれる中に、どろっとした血塊が注射器の中に入って来た。やっぱり駄目だ
と其の時思った。まだ気も確かなので、今の中にと強く手を握り「お父ちゃん云いたいことがあったら云って
下さいね。五郎さんも、叔父さんもいらっしゃるのだから」と私が云えば、ほんとに療らぬかも知れぬから
と綺麗に死を諦めて呉れてか、次々と遺言を申された。萬感胸にせまって、それを聞く者も涙・・・。然し、
っこれ程苦しい息の下から出る一言一言は身に沈む様だ。「安心して下さいね、石に囓りついても必ず、
成し遂げましょう」と強く強く誓う。時に一時頃、大坪へ電話する。みんな思わぬ急変に大慌てする。

準一郎だけでも一目会わしてやりたいと思ったが、それまで眼が見えればよいが、今は只それのみ、
しっかり手を握っては、時々「お父ちゃん、お父ちゃん」と呼んだ。その度に苦しい息の中から眼を
明けて物言いたげなまなざし。まだ然し、しっかりしていた。さあ、みんなが総立ちの様になって、
お父ちゃんの最後だ。大きな声でお父ちゃんと呼んであげなさいと口々に云う。然し、余りのことに
呆気に取られて唯呆然として立っていた。眼からはぽろぽろと涙を流しながら。あゝそれでよい。
然しまだまだ解るかも知れないと準一郎の手を取り、お父ちゃんの手を持たせる様にして、
「お父ちゃん準一郎ですよ」と云えば、かすかに眼を開けて「準か」と微かな声ながら、はっきりと
申された。それから脱脂綿にしませた此の世では最後の水を2滴程準一郎の手からお父ちゃんの
口へ運んだ。チュッチュッと吸ってくださった。あゝよかったよかった。それから注射もどんどんして
頂き、もうお母様へ会わしてあげたいと唯それのみだった。「お父ちゃん、お母様の出られるまでは
しっかりしてね」と云い続けながら待ちに待った、二時三十分頃か、「お婆ばんは出んか、婆ばんばん」
とはっきりと二度呼ばれた。もうそろそろ注射も反応がなくなり眼にも力が抜けて佛様の顔に換わって
行く様に思えた。

其の頃、配電会社の福島さんや其の他大勢の方々が病室に見え、やがて余り苦しみのない中に
みんなに見守られながら午後二時四十分遂に落命す。
其の時やっとお母様と、とし子、正子、津江子の四人が出てきた。今息を引き取った途端だった。
わっと取り縋って思い切り泣く。実に身をさかれる様に苦しい。
あんなに最後まで主人も待ち続けたお母様にほんの一足違いで会えなかったと思えば残念で仕方が無い。   

          “噫々”はかなき人生よ。    41歳を最後として、逝く
 
     
                        父:庄三について備忘録