尾脇弘子13回忌 2017年5月16日~21日 

 
 母の生涯と短歌   
 母への手紙  
 母の愛

初めに
 松田重雄先生(元鳥取県博物館長)が10数年の年月をかけて調査してお書きくださった『因幡松田
家家系図』は下記のサイトにあります。この裏づけとなる文献、公文書、地図等を探しています。
松田家家系 因幡松田家系(初代松田元重・現在19代 )

出雲・因幡慰霊の旅(2017.5.5-21): 松田氏考

今回の環故郷の目的は母の13回忌追悼のためでした。小生の3姉妹の夫婦と共に5月16日、
蘇生追悼式を大樹寺で行い5月20日には鳥取教会で尾脇弘子を偲ぶ会を主催くださいまし
た。翌日それを尾瀬の慰霊祭に繋ぎ、「地で繋ぐところは天でも繋ぐ」との当日のメッセージにあったように
母も今回、完成的慰霊を通じて尾瀬に眠る懐かしい方々と天でもつながったことと思います。

1、5月5日から5月12日(松江)

 今回は、宍道湖を一望できるホテルに泊まらせていただき、心行くまで 諸兄姉とお話の機会がもてまし
た。特に連休が続いたので、小松社長は朝の7時から夜の9時過ぎまで、玉造温泉を始め、いろいろご案内
下さり、とことんお話できました。「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」
 (二宮尊徳)をモットーに経営をされる小松社長は、電機事業とともに会社の利益を元に財団をつくり平和
事業
を展開されています。ひつつだけでのやっていくのにも皆、窮々しているのに、小松社長は文化事業をも
こなし、いつもニコニコ余裕の人生である。
 文化事業を担当する交易場さんは神魂神社から始まり、名所・旧跡・小松社長の文化事業の足跡を
ご案内下さった。 「なぜ大脇さんは伊豆にいるのか?」と聞かれ、川口君事件の話に及び、交易場さんは、
当時早稲田大学政経学部の学生で、川口君事件を自分のこととして身近に関わった一人であったことは驚きでした。
 また高校時代のクラスメートの中村君(島根大学名誉教授・英文学)は、花画廊、境港を案内下さり、ドライブしながら
旧交をあたためることができました。別の日には宍道湖を一望しながら、島根・鳥取を含めた自然大公園構想に話が
及び、小生が、ティファニー美術館を残す話に関わったことも話題となり, 互いに貴重な宝石から山陰から消えてし
まったことを残念がりました。
 「鳥取や島根のパイを大きくするのはどうすればよいか?」家業の電機会社を母や叔父、義弟に任せ、
宗教・平和運動に没頭した54年間、山陰とジリ貧の会社の再生の道を探ることもあって、島根ワコムを訪問
(一時ワコム本社を担当したことがあり、島根ワコムの開所式にも参加)、鳥取では奥山鳥大工学部
名誉教授ともソフト開発の未来を話し合った。

 
                                                        

2、5月13日~5月20日(鳥取八頭町)
 1)5月16日、
午前大樹寺13回忌
午後 友隣荘で会食

  大坪では、母が生前、造ってくれた書庫の整理、貴重な写真、資料を発見した。
 5月16日大樹寺(曹洞宗)にて法要。父が他界した折には鎌谷仙龍師後に永平寺副管長)、
母の他界の折には龍心師(韓国に日本仏教伝来の記念碑を建立)、今回は3代目の大心師で
あった。 思い起こせば、小生は高校1年生の終わりの頃、母は小生をお寺に送る相談をして
いたことを後になって聞いたことがある。その折、3月18日午前6時、聖霊体験の奇跡が起き、
その後の4年間の求道と入神現象、原理との出会いの証を龍心師にした。

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 2)5月19日 因幡松田先祖を訪ねて


 5月19日には450年ぶりの兄弟の出会いの場を体験した。母の実家は松田姓、その先祖を
辿ると1568年7月7日、岡山の玉松城の城主、松田元輝(12代備前松田:初代元国)長男元賢
は父と共に討ち死、次男 元脩の後孫、松田充弘氏(玉松会会長)が香川県と詫間町からお出で
になった。岡山県大原町の有元盛一氏が合流された。松田氏とは間接的な姻戚関係にあり、
ひょっこり蔵から出て来た刀が手元に入ると松田の先祖の霊が毎夜枕元に立つようになり、 
松田氏の法要に参加するようになってからその武士は枕元に現れなくなったとおっしゃっていた。
 このような歴史的出会いが持てたのは、ひとえに分家の松田重雄先生(鳥取県立博物館長、
中学校校長、全国隠れ切支丹協会会長)の10数年の探索のお蔭である。
 19日午前、松田充弘会長は、更地にあった瓦のかけらの九曜の紋章、墓地の灯篭の筋違紋を
見て、確かに家門だと感慨もひとしおであった。

 松田重雄先生は、山間の西谷部落(鳥取県八頭町)を訪ね、古老から、「元重が、備前岡山
から落ち伸び、隠れ住んだ。」という言う一言をヒントに、過去帳や墓石を丹念に調べ、岡山、神奈川、
静岡、藤原氏にまで遡る膨大な家系図をまとめられた。小生は、生前、重雄先生からそのコピーを
頂いた。
 450年前、元重が隠れ住んだという「御殿屋敷」は今は竹林公園の一部となって町民や観光客の
憩いの場となっている。先祖の縁のある公園のバンガローで共に一夜を過ごし夜遅くまで
語り合った。また高校時代の同窓生(元小学校長)が隼郡家のホーム隼(隼農協跡地の
レストラン)まで駆けつけてくれ、夜と朝の茶菓子まで心配り下さった。(これぞ日本文化のまご
ころ、”おもてなし”の神髄と感動した。)

 19日の案内を買って出てくださった平木郁夫氏はこの3月まで竹林公園の園長を務めて
いた方、今年4月から2年間、地域活性化プロジェクト委員長としてご多忙に中、案内の労を
取ってくださった。平木氏は地元の地形に詳しく、平木さんの自宅の裏道から高平城へ登った。
「昔の庄屋とはこんな感じであった」と、木原家をご案内くださった(村おこしの委員長をされて
いる平木さんは、文化財であるこの壮大な屋敷をちかぢかリフォームして鳥取環境大学の学生
を住まわせる予定)。 その木原家の瓦の紋章が松田家と同じ九曜の紋であったので「親戚かな?」
と思って、松田家系図を見てびっくり。そこで発見したのは、450年前の1568年7月、松田元重は
親戚の波多野民部太輔(高平城主)を頼って落ちのびたのだが、既に高平城は落城、既に帰農
していた元高平城家老の木原円心が世話して山一つ隔てた西谷(現在竹林公園)の地へ住んだ
ことでる。今日偶然案内されたのはその木原円心のゆかりの家であった。さらに20日ご案内くだ
さった山根希和氏(当時、船岡町長の下で竹林公園担当者、八頭町保護司)は、松田元重の隠れ
住んでいた「御殿屋敷」はこの辺りだとご案内くださった。その後、隼郡家から日下部への道路沿
いにある波多野民部太輔の墓と「怨親平等の碑」に案内くださった。この、記念碑は、騙し打ちにし
た丹比とやられた日下部の村民は長年嫁のやり取りもしない怨讐関係にあったが、1972年、両
村民が和解の意味で建てたものであった。このような余りにも自然な成り行きの背後に目に見え
ない導きを感ぜざるを得ない程であった。
 鳥取協会(家庭連合)で「尾脇弘子を偲ぶ会」を開催くださり、皆様のまごころを束ねて翌日の
尾瀬での全国慰霊祭に繋くことが出来た。徳野会長と幹部の皆様へこのことの報告をした。
会長のメッセージは「地上で解くことは天でも、みな解かれる」であった。小生を含め鳥取のことも
語られた。きっと今回で母も尾瀬に眠る懐かしい先輩諸氏とも天で繋がれたことであろう。

 今、我々は現代科学技術文明に飲み込まれ、縦線(神・先祖・子孫)をおろそかにしている
ように思える。文鮮明師の早稲田と言う足跡から数々の貴重な歩みを発見した井口靖雄氏
(史家)のように歴史を大切にしたいものである。長年の親友、高津啓洋氏も小生のルーツ
探索に刺激を受けて、高津の家系を調べたら、文禄・慶長の役で朝鮮の李家の王子を連れ帰り、
高津家には世継ぎの男子がいなかったので娘と妻合わせたことが判明した。今回の出来ごとを
通して、「富者愚児の譬え」、「探し出された子羊」の譬えを思い起こした。さらにそれを煎じ詰めれば、
人類は、同じ穴のムジナ、神の前に顔を上げることのできない罪人であり、それを赦してあまり
ある神の息子、娘、兄弟であり、仲良くしなければならないと言うことになる
であろう。

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3、5月20日夕方~5月21日 (鳥取市・群馬県尾瀬慰霊祭)


3、5月22日~5月27日(伊豆・修善寺)

 伊豆に帰ってみたら、米国で長年水産分野で働いた中村保氏が2か月ほど滞
在滞在される予定。これから水産摂理の全貌をお聞きすることになった。
 晩年あれほど海洋の未来を投入された文先生の志を誰だ受け継ぐのか気になっていた折なので、
これも天の導きを感じる。尾瀬霊園では神村東氏ともあったが霊界TVの開発状況をゆっくり聞き
たいものだ。ここ伊豆はまさに勉強するには天国である。3階建の保養施設には図書機能も付属
されている。未だにまともな学校の無い状況、責任を感じるが、図書機能があることはせめてもの
罪滅ぼしである。古田武士さんも20年過ごした日本での引き上げ米国へ帰国するに際し、貴重な
蔵書、資料を献納くださった。中村さんや奈田さんのように一時日本に帰国される方にとっては、格好の
拠点である。   以上  2017年5月23日 
                             大脇 拝

追伸:その後、大樹寺の2代目、龍心師と30分余り上記の内容をご報告した。3代目の大心師は永平寺
に行かれていた。また小生が大樹寺に行くことになっていたことをご存じなので、その後の求道、統一教会との
出会いを証した。そしてこれからは宗教の時代、宗派、教派を超え大連合し、世界的規模の文明の危機を
救う時であることをお話し、納得いただいた。日韓トンネルも長期的見通しの宗教界が目覚めてこそ可能で
あることは、1981年第10回ICUS(科学の統一に関する国際会議)で提唱者の文師の当初から
の見解である。
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 敬愛する同志の皆様、
先日、母の13回忌での出来事の一部(目に見えない世界があると感じさせれる)をご報告しましたが、
その第2幕が続いています。昨日, 5月25日、神明先生(神学博士・元神学大学院総長)が見て
感動したという「禅」(道元・映画)をユーチューブで2時間余、見ました。
 道元を永平寺に導き、時頼の救済ため永平寺まで駆けつけ、依頼した波多野義重は、先祖は同じ
藤原秀郷(田原藤太)、松田の親族でした。このことをこのたび母の13回忌でお世話になった鎌谷
龍心師(大樹寺住職)にご報告したら大変感動されていました。小生が大樹寺のお坊さんにならず、
教会へ献身した経緯、その後の歩みをすべてご存じな方丈さんので、小生の54年のひたすらな歩みを
かいつまんで話すと「息子、大心は今晩、永平寺から帰って来るのでぜひ教えてやってくれ!」と依頼
されました。(尾脇・松田家系はこちら
 科学技術の発達に目を奪われ、、目に見えない精神世界の探求を怠って来た現代人も、もう一度
精神世界へ立ち戻らないと本当に人類の滅亡が近いかも知れない。神明先生も元は東大工学部
原子力工学科の卒業生、小生も早稲田大学の理工、電気工学から求道の精神世界へ大転換した。
かつての空海・道元・親鸞いずれも時の秀才であった。しかし、今は、頭の良いと言われる人たちが、
見える物質世界へ投入し過ぎているのではないか?その影響もあって、科学技術の驚異的な発展の
他方、精神世界の発展が停滞していることが気になって仕方が無い。今や、宗教界が大同団結して
物から心へ、個人から連体へ、現世から永遠へ文明の大転換を図る時が来ているように思えてなら
ない。

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 昨日、頂いた松田充弘(玉松会会長)からの私信:
尾脇先生の動画を拝聴しました。素晴らしい思想に感銘致しました。世界の皆様の幸せと、争いの
ない社会、すべて考え方が正常なれば実現可能だと思います。有難うございました。
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大脇の返信:
 この動画を制作くださった方は、高野山大僧正、斑目力曠師(ご尊父も大僧正)です。インタビュ
アーは音声が消されていますが、日本TVで毎週土曜、皇室アルバムを作成放映している放送記者
でした。5分を編集するのの1時間もかかるとは知りませんでした。1時間半のインタヴューを13分にまと
めるのにどれだけかかったことでしょうか? 会長は、どれをご覧になったかしれませんが、これは1)、
「We are the World」です。 (ひらめきTVより)
2)、小生の悟りを表現したものは、そのほか、編集無しの1時間余の発題市河政彦氏(創価学会
元本部理事、公明新聞論説委員)の協力で開催したフォーラムです。
「新春の抱負を語る;新時代のパラダイムの確立を求めて」フォーラム(2016.1.23)未来構想戦略
フォーラムトップ, 3番目にあります。
 (大いなる期待を込めて迎えた21世紀も、以前と変わらざる紛争、飢餓、環境破壊が進行して
います。しかしながら、このような中にも新時代の萌芽も見られます。
資本主義、個人主義、線型(使い捨て)社会から、生きがいや潤いに溢れた循環型社会への移行も、
その1つの兆候です。犬猿の仲であった薩長が、倒幕の旗の下に団結し、大政奉還の大構想の下に,
敵であった佐幕派をも巻き込んで、明治維新の偉業が成し遂げられ、近代日本の礎が築かれました。
これこそ日本が世界に誇れる「大和(Grate haromony: だいわ)の民族的叡智」です。ギクシャク
する近隣諸国との関係を解決する鍵は、隣国と共に生きる壮大なビジョンを掲げることであり、今がその
時です。共存共栄の新時代を拓く構想とその実践に務めて来た諸団体, 有志が集い、志と思いを
共有する皆様がお互いに心を通わせることが出来るフォーラムを企画しましたので、万障繰り合わせて
ご参加下さいますようご案内申し上げます。)
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 伊豆に戻って丸4日間、鳥取の書庫から取り出した下記のサイトに写真をアップする作業に費やして
います。この度の島根・鳥取の慰霊の旅の整理は時間がかかりそうです。
   アーウィン・ユキコさんを偲ぶ会l  「トリウム原発は第3の道と成りうるか?』
   武田勝彦先生宅訪問        大脇のプロフィール写真追加   
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From: 日本家系研究会 <nikkaken@roots-science.org.uk>
To: 尾脇 準一郎 <junowaki@able.ocn.ne.jp>
Date: Fri, 26 May 2017 14:30:23 +0900
Subject: 松田考
 備前松田氏については丁度十年前アメリカ在住の松田喜和氏の依頼で調査したことがありました。
2005年当時、彼はUSA TrueWorld Foodsに勤めておりましたが現在はメールも繋がりません。
Maryland Silver Spring に住んでおりました。その時、岡山県立図書館にて手書きの藤原鎌足
公から江戸初期にかけての松田家系譜を発見しました。
波多野氏から分かれて神奈川県の松田荘を領して松田氏を称し頼朝に従い、武功をたて備前に
地頭として入部した一族です。この一族は南北朝時代に日蓮宗に帰依し備前法華と言われた不受
不施派を中心に日蓮王国建設のために奔走した経歴を持ちます。即ち、天国建設を当時から目指
していたのです。周藤先生の周藤一族も藤原氏より出た同族で備前法華の家柄です。
その後、備前法華の中心的存在として備前金川城主となった松田家は当時5万石ほどの勢力の
ある有名な戦国城主となりました。東に赤松氏、西に宇喜多氏と常に興亡盛衰があり、遂に滅亡
に至りますが、その子孫は備前高松、板倉家臣として続き、明治に至り松田鋼一郎忠綱は天皇
陛下の侍従長を勤められたと聞きました。(松田喜和兄談)資料での確認は出来ませんでした。
     家系研究会代表 与那嶺 正勝
電話でのご依頼・お問い合わせはTEL.075-662-3538
〒601-8338 京都府京都市南区吉祥院西ノ内町52-513
与那嶺 正勝:プロフィール
1950年沖縄県生, 琉球大学教育学部在学中に「沖縄の社会と習俗」という本で 与那嶺家の家系
図を発見。以後学園紛争の大学を中退。 家系図学会と家系研究 協議会に入会。丹羽基二、
丸山浩一先生の師事。1981年, 家系の調査員として、 海部元首相家などをはじめ2万軒以上の
家系調査及びその監修に従事。
著書: 「家系の科学」1990,徳間書店。 「家系を科学する」「図解:家系の科 学ノート」
    「新・家系の科学」等
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大脇コメント) 「禅」(道元)映画を見て、永平寺建立に貢献した波多野義重は、松田秀郷の血統
であることが分かった。波多野敬雄氏(前学習院院長)は義重の直系である。備前松田の一族には、
土光敏夫、八千草薫さんがいる。
このたび、母の13回忌に帰省して自然といろんな歴史的繋がりが見てきた。1568年、玉松城が落城し、
松田元重が因幡の高平城主、波多野民部太輔を頼った意味もよく理解できた。それにしても高平城も
落城して、家老であった木原円心(出家)が元重を助けて隣村に隠れ住まわせた。案内くださった
方々は何の打ち合わせをしたのでもないのに、自然とその木原家や民部大輔の墓、和親の碑にご案内
下さった。見えざる世界からのお導きとしか考えれらない出来事であった。
ものに形を与えるのが生命、生命だけでは万民が万民の闘争となり、ニヒリズム(ニーチェ)、厭世観
(ショーペンハウエル)に陥る。その生命に意味を与えるのが愛である。まさに愛こそ無限に増える永遠の
エネルギ―である。(A.アインシュタイン)


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差出人:福田之保 <>
2017/05/26 10:13  本文:道元禪師の映画「禅」見ました。ありがとうございます。福田拝
*福田さんは、堀尾義晴(浜松城、富田城城主、松江城(国宝)の建造者)が 先祖であることを松江
 へ向かう車中で聞いた。本人はトヨタのカローラ、 パブリカ等の名車の設計グループに加わって
 設計(主にボディー)に従事した。現在は. アジア共同体推進協議会 会長、西東京日韓親善協会理事長
                                                   以 上
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大脇研究室・ 伊豆創生フォーラム E-mail:junowaki@able.ocn.ne.jp
〒410-2411 静岡県伊豆市熊坂1257-345 百鶴苑203号室
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 HP  「市民国連の歌」