「因幡松田氏探訪記」  松田充弘(玉松会会長)

平成29年5月19~20日。

 大村襄治防衛長官が玉松会の副会長していたとき(昭和55年頃)、玉松会総会に尾脇準一郎氏が私の母親は備前松田氏の子孫です、と
初めて来られた。お話しでは、玉松城落城時(永祿11年)元脩の弟に元重がいて因幡(鳥取県)八頭の隆平城の城主波多野氏(縁戚)を頼り、郡家西谷に家臣に守られ落ち延びたと家系図を持参し来会した。永祿二年に隆平城はすでに落城していて、家老の木原円心を頼り移り住した。私達は元重の存在に驚いた。その系図は元重の末裔で鳥取県立博物館館長を務めた松田重雄氏(キリシタン研究家)が作成したものである。松田家はその地で庄屋をしていたと記されている。
私は何時かその地を訪ねたく思っていた。

 この春、尾脇氏からの電話で母親の命日が5月16日で法事の為に郷里に帰るとの事、とても良い機会と勇んだ。尾脇氏のご母堂様のお導きにより実現に至った。
5月19~20日に岡山県大原町在住、美作菅家の末孫、有元盛一氏と二人で八頭町の隼駅で尾脇氏と落ち合った。案内人は地元の名士、平木郁夫氏の先導で隆平城に登る。そして城麓(日下部)の波多野氏の家老、木原円心の旧邸宅と波多野氏の守護神、日下部神社を参拝。その日は元重が忍び住んだ西谷の竹林公園のロックハウスに泊まった。竹林の中、風が さわさわ、しかも元重が居たところ、ひょっとしたら霊に会えるかもと、びくびく、ぞくぞくしながら眠りについた。

 翌日の案内人は地元西谷の山根貴和氏、元役場職員で現在保護司されている。地元の生え抜きのお話しに迫力を感じた。二日間スペシャリストの両人に感謝感激で450年前を偲んだ。

 因みに玉松城落城時十二代松田元輝の長男、元賢は38歳で討死、次男元脩は26歳、三男の元重は13歳であった。
影を掴むような四世紀半を遡った、山野は昔のままの自然に満ちていた。因幡を含めこれからも歴史散歩のロマンは続く???
                                        以 上。


5月19日 因幡松田先祖を訪ねて

 5月19日には450年ぶりの兄弟の出会いの場を体験した。母の実家は松田姓、その先祖を
辿ると1568年7月7日、岡山の玉松城の城主、松田元輝(12代備前松田:初代元国)長男元賢
は父と共に討ち死、次男 元脩の後孫、松田充弘氏(玉松会会長)が香川県と詫間町からお出で
になった。岡山県大原町の有元盛一氏が合流された。松田氏とは間接的な姻戚関係にあり、
ひょっこり蔵から出て来た刀が手元に入ると松田の先祖の霊が毎夜枕元に立つようになり、 
松田氏の法要に参加するようになってからその武士は枕元に現れなくなったとおっしゃっていた。
 このような歴史的出会いが持てたのは、ひとえに分家の松田重雄先生(鳥取県立博物館長、
中学校校長、全国隠れ切支丹協会会長)の10数年の探索のお蔭である。
 19日午前、松田充弘会長は、更地にあった瓦のかけらの九曜の紋章、墓地の灯篭の筋違紋を
見て、確かに家門だと感慨もひとしおであった。

 松田重雄先生は、山間の西谷部落(鳥取県八頭町)を訪ね、古老から、「元重が、備前岡山
から落ち伸び、隠れ住んだ。」という言う一言をヒントに、過去帳や墓石を丹念に調べ、岡山、神奈川、
静岡、藤原氏にまで遡る膨大な家系図をまとめられた。小生は、生前、重雄先生からそのコピーを
頂いた。
 450年前、元重が隠れ住んだという「御殿屋敷」は今は竹林公園の一部となって町民や観光客の
憩いの場となっている。先祖の縁のある公園のバンガローで共に一夜を過ごし夜遅くまで
語り合った。また高校時代の同窓生(元小学校長)が隼郡家のホーム隼(隼農協跡地の
レストラン)まで駆けつけてくれ、夜と朝の茶菓子まで心配り下さった。(これぞ日本文化のまご
ころ、”おもてなし”の神髄と感動した。)

 19日の案内を買って出てくださった平木郁夫氏はこの3月まで竹林公園の園長を務めて
いた方、今年4月から2年間、地域活性化プロジェクト委員長としてご多忙に中、案内の労を
取ってくださった。平木氏は地元の地形に詳しく、平木さんの自宅の裏道から高平城へ登った。
「昔の庄屋とはこんな感じであった」と、木原家をご案内くださった(村おこしの委員長をされて
いる平木さんは、文化財であるこの壮大な屋敷をちかぢかリフォームして鳥取環境大学の学生
を住まわせる予定)。 その木原家の瓦の紋章が松田家と同じ九曜の紋であったので「親戚かな?」
と思って、松田家系図を見てびっくり。そこで発見したのは、450年前の1568年7月、松田元重は
親戚の波多野民部太輔(高平城主)を頼って落ちのびたのだが、既に高平城は落城、既に帰農
していた元高平城家老の木原円心が世話して山一つ隔てた西谷(現在竹林公園)の地へ住んだ
ことでる。今日偶然案内されたのはその木原円心のゆかりの家であった。さらに20日ご案内くだ
さった山根希和氏(当時、船岡町長の下で竹林公園担当者、八頭町保護司)は、松田元重の隠れ
住んでいた「御殿屋敷」はこの辺りだとご案内くださった。その後、隼郡家から日下部への道路沿
いにある波多野民部太輔の墓と「怨親平等の碑」に案内くださった。この、記念碑は、騙し打ちにし
た丹比とやられた日下部の村民は長年嫁のやり取りもしない怨讐関係にあったが、1972年、両
村民が和解の意味で建てたものであった。このような余りにも自然な成り行きの背後に目に見え
ない導きを感ぜざるを得ない程であった。
 鳥取協会(家庭連合)で「尾脇弘子を偲ぶ会」を開催くださり、皆様のまごころを束ねて翌日の
尾瀬での全国慰霊祭に繋くことが出来た。徳野会長と幹部の皆様へこのことの報告をした。
会長のメッセージは「地上で解くことは天でも、みな解かれる」であった。小生を含め鳥取のことも
語られた。きっと今回で母も尾瀬に眠る懐かしい先輩諸氏とも天で繋がれたことであろう。

 今、我々は現代科学技術文明に飲み込まれ、縦線(神・先祖・子孫)をおろそかにしている
ように思える。文鮮明師の早稲田と言う足跡から数々の貴重な歩みを発見した井口靖雄氏
(史家)のように歴史を大切にしたいものである。長年の親友、高津啓洋氏も小生のルーツ
探索に刺激を受けて、高津の家系を調べたら、文禄・慶長の役で朝鮮の李家の王子を連れ帰り、
高津家には世継ぎの男子がいなかったので娘と妻合わせたことが判明した。今回の出来ごとを
通して、「富者愚児の譬え」、「探し出された子羊」の譬えを思い起こした。さらにそれを煎じ詰め
れば、人類は、同じ穴のムジナ、神の前に顔を上げることのできない罪人であり、それを赦して
あまりある神の息子、娘、兄弟であり、仲良くしなければならないと言うことになる
であろう。