「出雲探訪記」   松田充弘

一回目:平成24年5月25日~26日

玉松会事務局長大村ひかる氏、島根県飯南町の松田栄次氏、北海道の松田孝也氏(新庄松田氏)、と私の四人で、
承久の乱の戦功で出雲安来庄の地頭職になった松田九郎有忠の伝承の地を訪ねた。
大村家の遠祖大村出雲(家老)は福岡合戦のとき尼子氏に援軍要請に行った記録がある。また松田栄次氏の先祖は
雲州瀬戸山城の城主である。初日は安来の月山冨田城と松江白鹿城城主松田誠保の菩提寺の常福寺を訪ねた。
翌日は瀬戸山(赤穴)城を飯南町教育委員会の方の案内で城に登った。この城は毛利が尼子攻めのとき活躍している。
城主の松田左近将監吉久の墓を参拝した。


二回目:平成26年5月27日~28日

大村王宣(ひかる)氏、松田栄次氏、松田誠次郎氏、松田道雄氏、花田孫一郎氏(誠次郎の兄)、松田勝徳氏、松田善徳氏、
と私の八名で松江白鹿城主、松田左近将監満久の五男、五左衛門の子孫で安来市広瀬町在住の岩田耕氏家を訪問。
落城の際この地に落ち延びて松田から岩田姓に改姓している。墓所にはその謂われが刻まれている。とても立派な
墓碑が並び家紋は九曜紋と井桁紋で、備前新庄松田家との繋がりを感じた。次に松田左近の墓参拝、歴史の深さを
感ずる五輪塔である。
その日の泊は美保関の美保館で、館主は定秀哲也氏、当家の系図に先祖は松田十郎藤原貞秀で、海上交通の関所
の重責を担っていたようである。日鮮貿易を仕切る代々庄屋、年寄職を務めたと記されている。松田貞秀の名前から
定秀に改姓。家紋は岩田氏と同じ井桁紋を用いている。
次の日は松江市の白鹿城常福寺を訪ねた。感慨無量の二日間であった。


三回目:平成27年5月25~26日

大村ひかる氏と松田栄次氏と私の三人で安来市の市議会議員の岩田拓郎氏を訪ねた。岩田氏は尼子一門理事事務
局長をしていて五年毎に一門会を開催しているとの事。それから一緒に安来市立歴史資料館を訪ね金子義明館長に
お会いした。
翌日は出雲大社の北側の日御崎神社を参拝。この神社の神職は小野(松田)有忠で、雲州を統治する一翼を担っていた。
以上のように松田九郎有忠を遡る旅は八百年の歳月に阻まれ困難であったが輪郭は掴めた。安来中海の畔の十神山
城主松田備前守は尼子清定を攻撃。のち十神山城は尼子に攻められ備前守は追われる。その後松江白鹿城城主松田
満重は尼子十旗の筆頭になる。満重は備前松田氏の縁者のようである。松田三河守は白鹿城の法吉郷を所領していて、
出雲は鑪を産出し宍道湖と中海の海上権を掌握していた。
白鹿城城主松田誠保の父は満久で、尼子晴久の姉婿である。満久は備前松田一族の満重の次男と称されている。
承久の乱の戦功で出雲と備前に配属された松田氏はその後も交流は密であった。
                                                     以 上。